先日、YouTubeで「アスペルガーの人の話し方の特徴」みたいな旨の動画を何気なく視聴しました。(たまたま上がってきたので)
「空気が読めない」「思ったことをストレートに言う。(場合によっては相手を傷つける)」「自分の好きな話になると止まらない」「やたら難しい言葉を使う」などという項目が出てきて、
正直…焦りました。
「え?これそんなにおかしくないよね…」というのが率直な感想。
昔は「ちょっと変な子」で片づけられた子達も今や「発達障害」という診断名が下され、救われた人も多いかと思います。事実、深刻に悩んでいる場合、カウンセリングや外来受診できるチャンスにも恵まれ、また昔に比べ理解も深まった気がします。
が、日本ではちょっと言葉として乱用しすぎ、いわゆる間違って使っている人が多いじゃなんじゃないのか…と思うこともある訳です。
と、いうのもドイツにいると上記に挙げたような項目が結構普通だから。
友人なんてドイツ人の知人にチョコをプレゼントで渡した際、その場で一口食べ流や否や「ぶはっ!マズ!」と出したそう(笑)!!!!
それが本当に口に合わなかったらしく全く悪気のないその様子に、思わず彼女も笑い出してしまったそうなのですが、まあ吐き出すほどでなくとも自分の好みでないものを挙げた場合、浮かない顔をされることも珍しくありません。
挙げた方も「あ、そうなの」くらいで、こんなことで心を痛めているとドイツでは生きていけないので(笑)、それを見てこちらも次からは違うものをあげようというだけです。
とは言え、他人が傷つくことをズカズカ聞くのはドイツでも当然NGです。
ただ成長過程の子供の場合は無知な故にそういうことをしてしまいがちでもあるので、親も先生もそうした嫌なことを言うべきでないことを教えますが(良識的な人なら)、むしろそんな不条理なことを言われたら、相手に言い返せと教えられます。
と言うか学年が上がるにつれ、言い返せない場合はむしろ相手にしてくれない。そのくらい言い返す力が大切になってきます。
ただ、小学生くらいまでの小さい子は言い返せない場合が多いのですが、その代わり「私はこんなことをされて可哀想!」アピールが半端ない!(笑)先生に聞こえるように、小学4年生とかにもなって、ものすごく大きな声で泣き叫んだりするのです。
よくブンデスリーガの試合とか見てても、ちょっとトラブルがあっただけで、選手達ものすごくアピールしますよね。あれは小さい頃からあんな感じでアピールしているから本当に自然なことなんだと妙に納得。
日本の子は意地悪されると、心で泣いて我慢する子が多いけど、あれは泣くと恥ずかしいと言うのもあるんだろうな。
と、まあ、基本的にドイツでは最低限の「空気を読む」力さえあれば常識人、特に子供は成長過程なのでよほど問題がない限り基本はおおらかな目で見てくれてる気がします。(まあ先生によりますが)
補習校のお母さんなんかと話していると「日本のクラスの問題児と呼ばれる子ってドイツだとほとんど問題ないだろうね。まあそれ言ったらドイツの子なんて、ほとんど発達障害とか問題児だなんて言われちゃうよね」と笑います。
日本の方が「普通」の幅が圧倒的に狭い気が。
もちろん大人になっても、悪気なく本音を言ってしまう人や、実際にアスペルガーの傾向があって思ったことを口に出してしまって人間関係にヒビが入り悩んでいる人も間違いなくいると思うのですが、言われた側も「あの人ってちょっと‥」と、陰でヒソヒソ言うのではなく、なるべく溜めずに「今の言い方はこう言うところが傷ついた」とストレートに言ってもらえる方がお互いに随分上手くいくのではないかと思うこの頃です。日本では特に。
ちなみに誤解のないように言っておきますが(笑)、ドイツ人も他人に対し遠慮や配慮はかなりするし、余計なことを言う必要はなしと思っている人は多いです。
ただコミュニケーションの取り方がストレートなんで、鈍感な私としては日本以上に気楽だと思うことも結構あります。
言い返すのに慣れていない私には多少勇気が入りますが、そこはドイツのいいところだなと思っています。
コメント
コメント一覧 (11)
診断があってもなくても、普通かどうかによらず、成人してから社会生活が自力で営めるかどうかが一番大切だと思いますね。
日本は、児童生徒心療とか大学教育,フリースクールなどが単に産業の一部と化してしまったり、そこに相互依存してしまう傾向がある気はします。
一番大切なのは義務教育前、小学生低学年期だと思うけど、自治体も家庭も本人もそこをカバーし切れず、後に無名大学や各種専門学校、医師の診断がそうした子どもの受け皿となるケースがあります。
このやり方が、かえって自立を奪っている気はします。結局、発達には適時性がある…ある時期にしっかり観察,関与しないとなかなか取り返せません.なので、基本、学校が小4で判断を下すドイツの潔く合理的な進路決定方法は、社会運営上はとても理にかなっているかもしれません。
こちらこそ教育関係者さんから非常に興味深いコメントをいただきありがとうございます!ウンウンと頷きながら読んでしまいました。やはり早い段階の気づきの方が良いのですね。ドイツの小学校4年生で学校選択は賛否両論ありますが、確かに自覚するのに悪くないきっかけだなと自分の子達を見て思いました。とある記事で「ドイツは小学校4年で人生が決まるが、日本は誰でも大学までいける自由な選択肢がある」と言うものを読んだことがありますが、日本の高校、大学のレベルや質にも問題があるのではと感じています。日本でいわゆる「底辺高校(教育困難校)」と呼ばれる高校でも「進学校」と呼ばれる高校でも卒業すれば同じ「高卒」となるところに奇妙さを感じています。高校によっては小中学校の復習をすると言うことも聞いたことがありますが、これでは「高校過程を卒業した」とは言えないのでは…と。大学もお金を積めば入れるところは日本のいい点かも知れませんが、その大学がいわゆる「大学レベル」に達しているのか怪しいと言うのも奇妙な話です。いっそドイツのように、各学年に応じた基礎的なことが全くできていない場合、もう1年その学年をしっかりやるような(もちろんその子になんらかの障害的な問題がある場合も気が付きやすい)、その子のためになる留年制度が当たり前にあってもいいのではと感じています。
丁寧なお返事、うれしいです。お時間いただき、ありがとうございました。
日本も今日の教育課題に応じて、学校制度自体を見直さなくてはいけない時期なのではないかと思います。正解を見つけるのは難しいし骨は折れますが,子どもと、ひいては社会のためを考えるなら、ドイツを始め他の国の価値観から学ぶことが必ずあると思いました。ドイツのクリスマスディナーなどまた教えてください(*´꒳`*)
その後、何度となく学校を卒業できない夢(高校なのか中学なのか不明)をみました。中卒と言うコンプレックスをずっと持ち、人間的にも嫌な人でした。
きっかけは夫の死でした。
人の明日なんて分からない、高校に行きたい、死ぬときに後悔したくない。
次男の高校入学と同じく私も入学しました。次男は、5年で卒業の学校でしてから、私も一緒に卒業てきればと思い勉強しました。勉強はとてもとても楽しかった🎵
そして、4年で卒業できて、あれだけコンプレックスを持っていたのだからどれだけ輝いた日々に変わるのかと思いきや、全く何も変わらなかった。
言いたいのは、成績だけでは決められない何かが有るかも言うこと、その時の環境で心が頑張れない人も居るかもです。
読んでてジーンときちゃいました。高校に47歳で入学され卒業されたとのこと。本当に素晴らしいと思います。実は私も美大を出ていないコンプレックスがずっとあり(予備校のない田舎から美大に行くのは大変なので自分の中ですぐに諦めてしまった)、事あるごとに美大の通信制を考えているのですが、旦那に「出たからと言って特別に変わることはないと思うよ」と言われているのですが、のんさんの話を聞き「何も変わらなかった」という点に少しハッとしました。本当に環境というものはあると思います。まとまらない文面になってしまい申し訳ないです。
子供が卒業式に来てくれ、私の担任から「良かったね」と、言われたときの息子達の笑顔が忘れられません。
と書きつつ、本来の話題から大きくそれた話になってしまいました。
高校には確かに大きな学力差が有りますが、それでも高校に行きたいと、思っている人がいるかもしれないし、高校で小学4年の分数から初めて、そこから学ぶ楽しさを知る人がいるかも。
ドイツのように又一年学びなおす事ができない日本には、もしかしたら必要な高校かも知れません。
素敵なお話をありがとうございます。以前私が書いた「高校の学力差の表現」で、もしも誤解を生む表現があったとすれば大変申し訳なく思います💦
いくつになっても学ぶという姿勢、それをのんさんのように実現される力は本当に素晴らしいと思います。いくつになっても年齢制限がなく学び直せる場所があるというのは本当に大切なことですね。お話を聞いてますます思った次第です。
ドイツは小学校以降は中高等一貫教育教になり、「ギムナジウム」「レアルシューレ」「ハウプトシューレ」などと(他にももう数種類あります)将来の目的や学力に応じて進路が分かれるので、「〇〇ギムナジウム」でています、というとその人が大体どのレベルでどんなカリキュラムを受けてきたかわかりやすいという点で(就職などで)システム化されているなと感じています。日本でいう「高校」という学校が、ドイツ人にとって定義が曖昧で広すぎるのでドイツ人と話す際にうまく説明ができないため、私の中でそうした疑問が湧いてきたんです。あえて日本で高校を分けるなら、そして学校選びをする際には「普通科」「工業科」「商業科」「看護科」「定時制」「全日制」などがあること。そして「偏差値」で選ぶということでしょうかね。
ちなみにドイツでも「レアルシューレ」を出た後、レストランで働いたけど自分には全く合わなかったので大学に行き直したいという場合、「夜間ギムナジウム」などを経て大学受験を経て大学に通い直すことも可能です。(「ギムナジウム」または「ゲザムトシューレ」というジャンルの学校に行かないと大学入学受験資格は得られないのです)まあ、ドイツは「学校→職業」にかなり直結しているので、日本の場合とはちょっと違うかも知れません。ただ年齢問わずそのような学び直す機会があるということは日本ドイツに関わらず素晴らしいことだと思います。
今回のお話、私もとてもとても同感です。
今の日本の教育などは、私(アラフォー)の子どもの頃よりも、ずっと窮屈なものにも感じています。
私は、いわゆる首都圏で育ち、自然もありながら、都会も感じる環境で育ってきました。
そして、結婚を機に、主人の仕事の関係で、いわゆる地方都市に暮らして、子育てしています。
環境としては、自然たっぷりで子育てしやすい環境…とも思えるのですが…
子どもも、そして大人を取り巻く環境も、いわゆる『普通』の基準がとても狭く感じ、物凄く窮屈なものを感じずにはいられません。
勉強に対する考え方も、ステレオタイプが過ぎたり、これは時代の問題なのか、環境の問題なのか、よく分からなくなります。
私自身は、『普通という基準はない』を座右の銘ぐらいに思って生きてきたのですが、日本って、こんなに生きにくい国になってしまったのかと、残念に感じずにいられず、どうにかしたいと考えてしまいます。
そして、『普通』の基準も、明らかに地方の方が狭い!!
やはりそれは、まず分母(人口)の数が違うこともあり、『色んな人』の数が少ないから仕方ないのかもしれない、と気付きました。
人間って、色んな人がいればいるほど、ちょっとした違いに鈍感になり、そして逆に、同じような人が集まると、ちょっとした違いに敏感になるんだそうです。
だから、そもそも島国の日本は、人種がたくさん交わる国とは圧倒的に環境が違い、考え方が偏ってしまうんですよね。
それが、地方では余計に強くなる気がします。
(地方とはいえ、大きな都市、小さな都市・町でまた全然変わってきますね。)
私が育った環境では『面白い人』も、こちらでは『変わった人』となってしまい、なかなかユニークな人材は育ちにくいのではないかと感じてしまいます。
(続きます)
そして、人と違ったことに対する、許容範囲の狭さに、大人でさえも愕然とします。
本当に、色んな価値観が入り乱れる環境・国が羨ましい!
むしろ、ユウさんのように、意見を発する人自体が少ないですよね。
自分の意見を発するのではなく、人の意見を叩くだけのこの国の在り方、今問題にもなってきてるけど(←ネットの誹謗中傷)、そもそもの環境がこんなだもんな、と感じずにいられません。
子どもたちも、そもそも窮屈だから、こんなに不登校の子が増えているのでは?とも思ってしまいます。
(不登校の問題は、色々複雑かと思いますが、その一因とは感じます。)
どうすれば日本は、もっともっと視野の広い、いい国(面白い国)になっていくのでしょう。。。
ユウさん、ぜひこれからも他文化の面白さや日本との違いなど、たくさん発してください。
応援しながら、楽しくお邪魔させて頂きます♪
長文失礼しました!
嬉しいコメントありがとうございます!私自身愛媛の片田舎で生まれ育ちましたが、私にはやはり田舎の生活は価値観の面では窮屈に感じます。(もちろんいい面もありますが!)その後東京でさまざまなバックグラウンドを持つ周りに囲まれて大学生活を謳歌しましたが、首都圏の子育てタウンで子育てを始めると今度はその取り巻く環境や話題が中学受験や塾のことばかりになり、都会なのに多様性とはほど遠いなと驚いた次第です。確かに私たちの子供時代ー昔よりも今の方がより窮屈な感じもしますね。思えば昭和は雑だったW
もともと私もゆうたろうさんと同じく「普通なんて基準はない」と思っていたタイプなんですが、ドイツはやはりすごかった。想像斜め上でした(笑)。ここまで他民族国家だと思っていなかったので本当に自分はなんて自分の作っていた常識に縛られて生きていたんだろうとカルチャーショックを受けた次第であり、ぜひこの気持ちを皆さんにもお伝えしたくてこのブログを書いています。
続きます
細々と続けていたこのブログも近年では随分と注目されるようになり、多くの人にみていただけるようになったからか、予想外のコメントもいただくようになりました。ちょっと辛くて無難な方向に行こうとも思ったこともありますが、それでもやはり万人に好かれるよりも、私の意見に対し、読者がちょっと立ち止まって考えられる「生活の中の軽くつまづきかけてしまう石ころのような」内容にすることを意識しています。なので何か意見を述べた後に「なぜなら」の理由がはっきり言えることを意識して書いていますが、これはやはりドイツ生活で培われたものかもしれません。もちろん私が正しいなんておこがましいことは思っていませんし、間違っていることも当然ありますが、毎日の生活でなんとなく窮屈に感じていたり、空気が読めないと言われたり、自分が何もできないダメな存在だな、なんてふと思ったときに、「問題ないよ!世の中にはこんな世界もあるんだよ」と言うことを伝えられる存在であればいいなと思っています^^
私も長文になっちゃった!W